管理人が書いた「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズの二次小説(以下SS)を掲載しています。
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当ブログのSSは原作小説(分裂までの全て)を既に読んでいる方へ向けて書かれています。そういったスタイルなので、当たり前のようにネタバレしています。特に何の予告もしていません。原作未読の方は、ご注意くださいませ。
[更新履歴]六月十五日
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まずは、拍手コメ返信。
>無記名の方
ありがとうございます。かなり間があくとは思いますが、必ず再開するので、また遊びにきてください!
とあるサイトの記事を見て、本当にお茶をふいたことがあります。
「――ある程度限定された、受動的に教育に携わる、という立場としての」
こんな記述があったんですけどね。
「自分は高校生である」
ということをこんなふうに言い換えてるんです。びっくりしましたね。なんじゃそりゃ(笑)
と、ここで、昨日もらったコメントへの「私の返信」をここへのっけときます。これは本当に、最近よく思うことです。
「自分の能力を誇示したい」
「教養のない人を見下したい」
「何かしら寄って来る相手を威嚇したい。たとえそれが、見えない相手でも」
ネットにはこういう輩がたくさんいます。簡単に述べることができるものを、わざわざ難しく言い換えたり。必要もないのに外来語を使ってみたり。辞書を引いてまで、難字に置き換えてみたり。
「自分はあなたと違って賢いのですよ」 いったい誰に向かってこんなアピールをしてるのでしょうか。そんなに称賛されたいのでしょうか。
難解な文章を書いたつもりになって悦に入っている人を見ると、なんだかオナニーを見せられているような気分になります。
正直、気持ち悪い。
追記:「教養があっても、学力があっても、頭は悪い」という人はたくさんいる。そのうちの何割かは、ただ単に、自分を大きく見せかけているだけの、どあほうだったりする。
さて、我孫子武丸「腐食の街」を読み終えました。近未来の描写、ラストの緊迫した描写、すごく面白く読めました。こういった暗い雰囲気の世界観って大好きなんですよね。ミステリというよりは、サイコサスペンスといった方がいいのかな? どういうふうに分類するのか、私はあまり興味がないのですがね。続編もあるようなので、それも読んでみようかな。本格の方も読まないと、我孫子武丸を読んだことにはならないかなあ。「かまいたちの夜」は、シリーズすべてプレイしたんですけどね。
さあ、読書は一旦休憩。
小説を書きますかね。
初めて小説というものを読んだのは、小学三年生の頃だったと記憶している。
叔父が西村京太郎の大ファンで、彼の勧めによって、半ば強引に活字に触れることになった。西村京太郎の作品は、割と解りやすい文章で、それほど難しい漢字も出てこない。しかし、一般小説なので、ほとんどの漢字にはルビが振られておらず、小学生には読めない語句がたくさんあった。
それでも私は、一切辞書を引くことなく読んだ。ストーリーの流れと、前後の文意から、読めない漢字の意味を予想し、とにかく読んだことにした。それが功を奏したのか、中学生になるころには、同年代の子供がほとんど持ち得ない、文章を読み解く力がついていた。実際、中学生の定期考査から大学受験に至るまで、「現代国語」のテストで間違った解答をしたことは一度もない。たまに漢字の読み書きや、ことわざの問題で、どうしても思い出せないことがあり失点することはあったが。
小学三年から「十津川警部シリーズ」をメインに、叔父のコレクションをちょこちょこ借りては読んだ。中学二年のころになると、西村氏の最新刊に追いついてしまった。つまり、読むものがなくなった。これを機に、本を読むことさえも止めてしまった。
再び、読書というものに興味を引かれたのは、大学生になってからだった。暇を持て余していた私は、ふらりと立ち寄った本屋で、平積みになっていた「すべてがFになる」(森博嗣)と出会った。久し振りに読むミステリはとても面白く、夢中になって森作品を読んだ。西村作品(トラベルミステリ)しか知らなかったために、森作品を新鮮に感じたということもあったと思う。
これがきっかけで、本格ミステリに手を出すことになったのだが、その対象はとても狭い。
ちゃんと読んだと言える作家は、有栖川有栖、綾辻行人、島田荘司、クイーン、クリスティ、カー。ぐらいなものか。
あと、これはファンタジーだが、トールキンの「指輪物語」は何度も読んでいる。
最後に、言うまでもないことであるが、「涼宮ハルヒの憂鬱」だ。
私の読書体験というのは、この程度。いざ、小説を書こうという立場になって、これではいけないと最近よく思う。もっと色々な作家の作品を読むべきだ。この世に、既に発表されている物語を知らずに、新しいものを創造することなどできるはずもない。
というわけで、昨日は、まだ触れたことのなかった、横溝正史「本陣殺人事件」を読んだ。ドラマ、映画など、散々映像化されているので、横溝作品がどういうものなのか大体は知っているが、原作を読むのは初めてだ。
なんと日本初の「密室殺人」ものらしい。それは知らなかった。「これが和製密室殺人の原点なのか」と、なにやら感慨深いものがあった、ような気がする。
内容で気になったのは、とにかく、シーンを頭のなかで再現することが難しい、という点だ。水車の位置がどこらへんにあるのかとかね。
琴線ってそんなに長いの? 複数を繋ぎ合わせたということなの?
とにかく想像しづらい。二回ほど読んで、なんとか映像として再現できたが。これも確か、映画かドラマにはなってたはずだから、手に入るなら観てみようかな。
さて、「読みたい作家」はまだまだたくさんある。とにかく色んなものを読もう。
今は、我孫子武丸「腐食の街」を読んでる途中。
いや、面白いね。これ。
それと、悩んでいた小説のネタだけど、ついにビビっとくるものがあった。そう、まさに「あった」。以前、ちらと考えていたものだったのだが、メモすることなく終わらせてしまったおかげで、すっかり忘れていた。面白いことに、村上春樹を読んで思い出したのだ。そのアイデアは、ただの設定部分だけなのだが、これをちゃんと小説に仕立て上げることができるのなら、満足いくものが生まれるのではないかと、そんな予感がする。
予感がするだけであって、確信はないが、とにかくやってみよう。
七月末に締め切りの新人賞に応募してみるつもり。間に合わなかったら、また、カラーの合う賞を探して出してみようかな。
書くべきものが見つかれば、一ヶ月で長編を書けると思うのだが、ただのうぬぼれ、勘違いという可能性の方が高いような気もする。
ハルヒSSはしばらく書けそうもありませんので、どうかご了承ください。
毎日、多くの拍手をありがとうございます。
村上春樹「レキシントンの幽霊」を読んだ。七編からなる――短編集かな。中編と呼べるものもあるけど。
一回目。さっぱり意味が解らず。二回目。おぼろげながら何かが見えてきた。この人の作品って、結局、すべてタトエバナシってことでいいのだろうか。良く解らない。どの作品も、「え? これで終わり?」という感じ。エンターテインメント小説にあるような、オチなど一切ない。
仕方がないので、ネットで色々調べてみた。素人書評家サンたちのサイトを見てまわる。ふーん、何やら、色々なことが書かれてあるが、結局のところ作品の解釈の仕方はどこを探してもない。
最後にWikipediaで「村上春樹」を調べる。
ふむふむ。なるほどー。平易な文章で、難解な物語を綴るとな。確かにそんな感じだね。しかし、明確な答えを作中で示さないのであれば、それは難解というか、理解不能にしかなりえないのじゃないかね。解釈の仕方など無数に存在するじゃないか。「読者ひとりひとりが感じることが大事なのだ」とかなんとか、煙に巻く寸法なの?
などと、考えながら画面をスクロールしていると、ものすごい既視感が――
なんだろう? と一瞬不思議に思ったが、その疑問はすぐに氷解する。
素人書評家さんのサイトで見た「村上作品を論じる文章」とwikiの内容が同じなのだ。影響を受けていると推測できる作家や、代表作が受けている評価など、wikiにあげられていることを、まるで自分の意見のように述べている。評論家サンは、ばれないように巧く、文章を改変して書いているつもりなのだろうが、短時間で比べられたら一目瞭然。wikiを参考にして書いているのは明らかだ。
ひさびさに大笑いした。
「村上春樹作品」とは、これを理解できる、解る、というだけで、自分を大きく見せることが可能な、とても便利な道具なんだね。
そして、良く解った。私がどうして「これ系」の文学作品が大嫌いだったのか。作品そのものが嫌いなのではなく、このような「自称評論家」が知ったふうな論調でうなずきあってる様子に虫唾が走るだけなのだ。
このことに気づけただけでも、村上春樹を読んだ意味はあったというものだ。この作家の真髄は長編小説にありということなので、短編集を読むだけでは駄目だわね。
さて、何から読もうかな。やっぱり刊行順が良いだろうか。
以上、「自称評論家」を見習って、文体を工夫してみました(笑)
ここしばらくは、自分の創作の邪魔になると思い読書を止めていました。しかし、本当に絶望的なほど、何も良いアイデアが浮かばないので、小説を読むことを再開しました。
読もうと思って、まったく手付かずだったものを次々と読破中です。一日一冊のペースですかね。自分はいわゆる斜め読みとかは絶対にせず、じっくりと読み進める人間なので、時間的にも一冊読むのが限界です。
昨日は、今さらながらの京極夏彦「姑獲鳥の夏」を読みました。この作者は、製本したときの本文レイアウトに合わせて書く、ということで有名ですが、本当にすごいこだわりですね。私が読んだのは文庫の方だったのですが、一ページにきっちり全文がおさまるように完璧に修正されています。決して、文章がページをまたぐことはないのです。これほど、こだわってる作家って他にいるんですかね。
内容の方は、発表当時、ミステリとして「アリ」か「ナシ」か散々議論されたようですが。
私としては「アリ」ですね。
展開されるロジックに一貫性があり、破綻もしておらず、ある一定以上の説得力がありますので、充分に納得できます。これを拒絶してしまう人は、自分の経験則に照らし合わせて「そんなことが起こるわけない」と感じてしまい、その思いが強すぎて、作者の提供する論理を否定したくなるのでしょうね。
「問題作」としての側面は、有栖川有栖「ペルシャ猫の謎」(短編)と共通するものがありますなあ。
私が気になったのは、密室の謎よりも、「恋文」ですれ違いが生じるという部分です。いえ、この「すれ違い」自体は、何ら問題ないのですが、おかしいのは、どうしてそんな悲劇が生まれたのか、その原因に京極堂以外の人間が気づかないところです。
関口については、密室の謎が生まれた原因と同じ理屈で気づけなかった、と理解できますが、その他の人間は、容易に真相へ辿り着けるはずです。
なので、最後の事情聴取のシーンでは、京極堂と関口以外の人間がすべて間抜けに見えてしまっています。京極堂の探偵としての有能さを強調したかったのでしょうが、ここだけがご都合主義に陥ってしまっていて、ちょっと残念でしたね。刑事たちはともかく、少なくとも、京極堂の妹は、すぐにピンと来ないとおかしいでしょう。
とまあ、なんだかんだいっても、さすがベストセラー作家の作品。面白く読めたことは間違いないです。